あ行 覚えておこうよ 遍路・巡礼関連 用語集
鳥枢沙摩明王
鳥枢沙摩明王(うずさまみょうおう)は、もともと印度の火の神様で、不浄のものを浄化して、清める力を持ちます。
まさしくトイレの神です。
四国15番札所国分寺にはお大師様が彫られた鳥枢沙摩明王の額が飾られています。霊場のトイレには鳥枢沙摩明王像が安置されている場所も多くあります。
ご真言 おんくろだ なう うん じゃく
打つ
札所寺院を参拝することを「打つ」と言います。
その語源は、その昔巡礼者はお寺に納める札に木札を使っていました。
その木札をお堂の柱や壁などに打ち付けたので、ここから札を打つというようになりました。
現在では、木札のかわりに紙の札を納めますが、そのまま打つという言葉を使っています。
巡り方によってその呼び方もいくつかあります。
順打ち(じゅんうち)
その名のとおり札所番号順に巡礼する方法です。
逆打ち(ぎゃくうち)
札所番号を逆から反対まわりに巡礼する方法です。
案内などが順打ちに沿ってあるため、順打ちの3倍難しいと言われます。
そのため順打ちよりも御利益があるとされている。
区切り打ち(くぎりうち)
札所を数カ所に区分けして巡礼する方法です。
通し打ち(とおしうち)
札所を一度にすべて巡礼する方法です。
一国参り(いっこくまいり)
四国4県の1県ずつ巡礼する方法です。
閏年の逆打ち
四国八十八箇所を1番から88番まで時計周りに札所の番号順にお参りすることを「順打ち」、それに対して、88番から1番まで逆に巡ることを「逆打ち」と言います。
そもそもはお遍路の元祖の衛門三郎が20回遍路を巡ったあと、逆に廻ってお大師さまと会った伝えによります。
このことから逆打ちは「生まれ変われる」とか「死者に会える」ともいいます。
また、ご利益も順打ちの 2倍 と言われています。
平成20年は閏年です。
この年にお遍路を巡ると3倍のご利益があるといわれています。
これは衛門三郎が、弘法大師に会えた年が西暦832年の閏年だったことにちなんでいます。
さらに逆廻りをしたことで逢えたことから「閏年に逆打ちをすると順打ちの2倍×閏年の3倍で6倍のご利益が有る」と言われています。
閏年に逆周りツアーが多いのはそのためです。
みなさんもぜひ今年お四国に出かけられてはいかがですか。
回向文
回向文(えこうもん)の回向とは自分の行なった良い行ない(善根)の功徳を他の人々にめぐらし、分かち与えることをいいます。
お遍路・巡礼では読経の終りに回向文を読みますが、これによって経典の功徳を故人に振り向け、その力よって故人を弔う(追善供養)働きをします。
また仏事を行った功徳を自らだけのものにすることなく、広く有縁の人々に回向するために読誦される大切なお経です。
正式には
願以此功徳 がんにしくどく 普及於一切 ふぎゅうおいっさい
我等與衆生 がとうよしゅじょう 皆共成佛道 かいぐじょうぶつどう
ですが、今では次のように唱えています。
願わくはこの功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生とともに仏道を成ぜんことを
衛門三郎
衛門三郎(えもんさぶろう)は遍路の元祖といわれている人です。
伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町)の豪農で衛門三郎という人がいました。
ある日托鉢に来た僧(お大師様)を追い返すために僧の持っていた鉢をたたき割ります。
その直後から、三郎の8人の子どもたちが次々とみんな亡くなってしまいました。
三郎は自分の非を痛感し、私財を投げ打ちお大師様に許しを請うために四国巡礼の旅に出ました。
四国を20度まわりましたがお大師様には会えず、21回目に逆回りで歩きはじめました。12番焼山寺にてようやくお大師様と対面できました。
許しを請うた三郎はその場で力尽きてしまいますが、「今度は国の領主として人々のために尽くしたい」と言い残します。彼の願いを聞き届けたお大師様は、「衛門三郎再来」と書いた石を衛門三郎の手に握らせ祈願しました。
翌年、伊予の領主河野息利(おきとし)に子供が生まれました。その子は左手を固く握って開きません。父母は心配して安養寺の住職に加持をしてもらうと、手を開きました。すると中から石が転げ出て、そこには「衛門三郎再来」と書いてあったのだそうです。その子は15歳で家督を継ぎ、人民を慈しみ偉大な功績をあげたそうです。
その石は安養寺に納められました。安養寺は南北朝時代にはその故事にちなんで石手寺と称されるようになったのです。
四国第51番石手寺にて玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。
四国のお寺や遍路道には、衛門三郎の像が数多く見られます。
縁起
縁起(えんぎ)は日常生活の中で使われています。「こいつは春から縁起がいい」、「縁起を担ぐ」、「縁起が悪い」などなど。
「縁」とは「因縁」ともいい、「ある条件によって」という意味です。また、「起」は「あるものが起こる」ということです。
そこで「縁起」とは、「ある一定の条件によって現象が起こる起こり方」ということができます。
身の回りでおこる現実のすべての現象は、常に生まれることと死ぬこと、生ずることと消えてなくなることで成立しています。必ず一定の条件のもとで生滅し変化しています。
人生を見ても何事も単独で生起し、存在しているものはありません。どのようなものでも、必ず他の力を借りて起こるものであり、他のものとの関わりにおいて、互いに助け合って成立しています。
このように、生起や存在のもちつもたれつの関係を「縁起」とよんでいます。
仏教のものの見方は、一切の存在を「縁起」の関係において見るということですから、「縁起」こそまさに仏教の中心的な考え方といえます。
お遍路・巡礼で聞くお寺の「縁起」の意味は全く違うといわなければなりません。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指します。
閻魔大王
閻魔大王(えんまだいおう)はヒンドゥー教の神様で、死後の世界の王様でした。
そして生の世界で最初に死んだ者(人間第一号)であるとされています。
仏教・ヒンドゥー教における地獄の責任者です。
また地獄の法廷の裁判長として、死んで地獄に行った人間の生前の罪を裁くとも考えられています。
死んで地獄に行った人間は閻魔大王を含む十人の王の法廷に順繰りに引き出され、そこで生前の行いを審査され裁判されます。
閻魔大王の鏡には死んだ人の生涯が映し出されるといわれています。
そこからその昔、閻魔大王はすべてお見通しということから、「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」と
教育しました。
日本では地蔵菩薩と同一の存在と解され、これは地蔵菩薩の化身ともされています。
多くの閻魔大王像は怖い顔をしていますが、再び罪をつくらせない為に恐ろしい顔で叱咤しているのです。
笈摺
白衣は、袖のあるもの。笈摺(おいずる又はおいずり)は、袖のない法被のことで巡拝の際に着るものです。
笈(おい)とは修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱のことです。今でいうリュックのようなものです。
西国観音巡礼が、一番古い歴史があります。
観音巡拝を始められた徳道上人や花山法皇は、巡拝の折、観世音を笈に納め背負って歩きました。
その際、体と笈が触れて破れないようにと、肩に白布をあてたのが原型とされています。
この故事にならない、今日では笈摺を着るようになりました。
今の巡礼の姿は、戦後に定着したものなのです。
納め札
霊場の事をお札所と呼びます。
その昔、西国三十三ヶ所・四国八十八ヶ所などのお寺にお参りした際に、名前等を彫った木札をお寺の柱等に打ち付けて願掛けをしたことからそう呼ばれています。
古いお堂などが現存しているお札所にはその後を目にすることが出来ます。
江戸時代に入ると木のお札は姿を消し「紙の札(千社札・せんじゃふだ)」 へと変化していきました。
特に、江戸っ子の「粋(いき)」な町民文化が観音様信仰と融合して、この「紙の札」はデザインや色に個性を発揮し人気を博します。
江戸時代にはお札所の柱や壁にこれを貼り付けるために巡礼にこぞって持って行かれました。
百観音霊場には今でも古いお堂のいたるところにこの千社札が所狭しと貼られています。
しかし、昨今の札所のお寺は、この千社札を貼ることを禁ずるところが増えてきました。
その代替として、紙のお札を納める習慣が定着しました。
これを納め札(おさめふだ・のうさつ)と呼んでいます。
私たちがお大師様 や観音様にお寺を訪ねさせていただきましたという名刺のようなものです。
それを本堂や大師堂の納め札入れに納めます。
納め札には訪れた日と住所、名前を書きますが、昨今の事情を考えると住所 は○○県△△市程度で良いと思います。
四国のお遍路では巡った回数により色が決まっています。
白 : 1回〜 4回
緑 : 5回〜 6回
赤 : 7回〜24回
銀 : 25回〜49回
金 : 50回〜99回
錦 :100回以上
※赤札がインターネットでは8回〜となっているのが多いですが、四国八十八ヶ所霊場会発行(平成18年12月1日発行)の先達経典を参考にしています。
お四国病
「お四国病」という言葉があります。四国遍路を終わってもまた行きたくなってお遍路に出ることをいいます。
症状は、昔のままの自然や、素朴な人情に触れてたくなり、四国八十八ヶ所巡りを2回、3回・・・と繰り返して巡拝するようになります。
50回、100回も巡る人がいるのもここ四国では何もびっくりすることではありません。
しかしご安心ください!「病気には病院」があるように、「お四国病にはお四国病院」があります。
その病院とは四国88ヶ所のお札所のことです。
さらに、お大師さまよりこの方1400年もの間、脈々として津々浦々にまで守り受け継がれてきた「お接待」の文化が効果的な特効薬になります。
「お四国病」は成人病と違い、私たちの人生にとって生きがいという希望の光を与えてくれます。
ですから安心してこの病だけは、大切に共存されることをお勧めします。
お接待
食べ物や現金、宿など、出会った人から巡礼者に施しをくださる慣習が「お接待」です。
お接待には食べ物や飲み物などをいただいたり、「接待所」と呼ばれる休憩所を開放していたり、「善根宿」という遍路に宿として提供してくださる所など、形態は様々です。
このお接待をいただくことで、人のありがたみが心に染みて自分はひとりではないと言う思いが湧いてくるものです。
地元の方々や他県の接待講の方々のご尽力により無償で行われている行為が生活に溶け込んでいます。
お接待をうける際には、その方々との出会いに感謝し、敬意を忘れたくないものです。
基本的にはお接待は出来るだけ受けて下さい。それは、お接待には「行けない私の分まで宜しくお参り下さい」という代参の意味があるからです。
さらにお接待自体が施す方の修行でもあり功徳につながるからです。ですから参拝の際には、お接待をして頂いた方の分までお参りするという気持ちを忘れないでください。
こういったお接待をいただいたときは、「南無大師遍照金剛(ナムダイシ ヘンジョウ コンゴウ)」の宝号を唱え、納札を手渡します。
お勤め
お勤め(おつとめ)は、お寺で行われる法要や勤行のことをいいます。
たいていは毎日早朝、お寺のご住職やお坊さんたちによって、仏壇の前でお経が唱えられます。中には夕食後行うお寺もあります。
札所での参拝、納経、お遍路・巡礼を行うこと自体もお勤めになります。
宿坊に泊まると、私たちもお勤めに参加させて頂く事が可能です。参加してみるととても奥深いものだということが分かります。
基本はお経を唱えますが、唱え方は宗派やお寺により異なります。唱えるお経も般若心経や阿弥陀経、妙法蓮華経、御文、和讃、念仏、題目、真言などと様々です。
唱え方も黙々と唱えるお寺もあれば、木魚や鐘、大太鼓を盛んに打ち鳴らして、節を取りながら詠ずるところもあります。また護摩焚きを行うお寺もあります。
私たちのお勤めでの役割もお寺ごとに全く違います。単にお坊さん達が唱えるお経を後ろで聞くだけの場合や、お焼香するよう進められたり、般若心経を一緒に読んだりと参加を求められる場合もあります。
ご住職やお坊さんたちの読経は、毎日鍛えられているだけあって、腹の底にずしりと響く重さが伝わってきます。
お遍路・巡礼中は一度は宿坊に泊まることをお勧めします。そしてお勤めは自由参加ですが、ぜひ参加してください。
おびんずるさん
おびんずるさんは正式には『賓頭廬(びんずる)尊者』といいます。
お釈迦様の死後、仏法を守るように命じられた16羅漢のなかでも第一尊者の頂点におられた方です。
羅漢さまとはお釈迦様の直弟子で、その教えを守り正しく広め伝えた聖者たちのことです。
別名を“なで仏”と呼ばれ、病気の人が自分の病の部分と同じ箇所をなでると病が治るとされ、信仰されています。
そのため、お寺のお堂の中央ではなく、縁側や外陣の隅っこにポツンと座っておられることがほとんどです。
これは、遠くから手を合わせるのではなく、身近にいつでも手をふれることができるためです。
特徴は長い眉毛に、しわだらけの赤ら顔であたまはつるつるです。
古い像は頭部と膝の色が薄くなっているものが多いです。それだけ沢山の人に触れられて願いを聞いた証拠です。
数多くのお札所にも、おびんずるさんが鎮座していますので探してみてください。
御前立
御前立(おまえだち)は、札所や寺院の長い歴史の中で、雷火や嵐・地震などの天災や戦国時代の争いに巻き込まれたり、廃仏毀釈運動などでお寺が荒廃し、本尊が野ざらしになっていたところもありました。
現在残されている本尊は大切に厨子の中で安置され、秘仏などで通常は扉が閉ざされているために、拝観が許されていないことが多いのです。
実際の札所でも巡礼者が間近に拝すことはなかなかないものなのです。
そのため本尊を模した新たな仏像を作成し、厨子入り本尊の前に安置するようになりました。
こうした仏を御前立と呼びます。
秩父では平成19年、浅草浅草寺でこの御前立観音が一同に拝観できました。
平成20年3月18日〜7月18日まで「日本百番観音報恩総開帳」として厨子入り本尊に会える行事が行われました。
お礼参り
お礼参り(おれいまいり)とは、本来の意味は、神社仏閣に願を掛けてそれが成就した時に、お礼としての礼拝やお布施のことです。
おもにお遍路・巡礼ですべての札所を巡り通した後に行ないます。
四国遍路におけるお礼参りは、いくつかの解釈があります。一般的には「高野山にお参りする」ことですが、他に「打ち始めのお寺にお礼に行く」「お礼のためにもう一度回る」などがあります。
西国のお礼参りは、「高野山にお参りする」と「長野県・善光寺」です。
坂東・秩父は「長野県・善光寺」と「北向観音こと常楽寺」にお礼参りをすることが慣わしとされています。
西国・坂東・秩父を巡礼した時は善光寺に巡礼達成の報告と結願のお礼に行くという風習が江戸時代に起こったのが始まりといわれています。
ではなぜ北向観音にも拝さなければならないのかというと、このお寺には現世の祈願を成就させる御利益があるからです。来世に御利益をもたらす善光寺のみの参拝は「片方だけでは片詣り」になるとされています。
お礼参りは、必ずしなければならないというものでもありません。
さらに、直後にしなければならないというものでもありません。
時間とタイミングをみて機会があれば訪ねることをお勧めします。
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